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薄火蔵明

松本夏樹

手動映像機器研究・展示専門「カイロプティック商会」代表
精神史研究(大阪芸術大学・武蔵野美術大学非常勤講師)

 以前の二宮知子個展(2000年/於・大阪造形センター)に寄せた感想に、足穂の「一千一秒物語」とトリボ発光 現象の例を引いたことがある。本展と同じく明治時代の幻灯器を提供することでコラボレイトした『Schwelle』(2001 年/於・大阪造形センター内ピンホールロッジ)に特段の文を寄せることは無かったが、拙い片言よりも二宮のガラス絵作品 と炎とレンズ、そして観者自身の網膜と精神のスクリーンが共働することで現象するものが遥かに雄弁であるのは自明で あろう。今展についても前2回と同様の思いではあるが、いささかなりと付け加える点があるとすれば、八幡堀沿いに建 つ喜多利邸の昼なお暗い蔵の中で観者は作品に相対する点であり、余りに安易に過ぎると考える向きもあるやも知れぬが、 敢えて江戸川乱歩を引用する。筆者を含め、暗闇の中のか細い明かりにどうしても魅せられる蛾のごとき精神の範なるが 故である。

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レンズ嗜好症

江戸川乱歩

    昭和十一年七月号「ホームライフ」/『幻影の城主』、『わが夢と真実』所収(抜粋)

 中学一年生のころだったと思う。憂鬱症みたいな病気に罹って、二階の一間にとじこもっていた。憂鬱症は日光を恐れるものだか ら、家人に気がねしながら、窓の雨戸を閉めたままにして、暗い中で天体のことなど考えていた。そのころ父の書棚の中に、通俗天 文学の本があって、私はそれによって宇宙の広さを知り、地球の小ささを知り、自分という生き物の虫けら同然であることを感じて、 憂鬱症の原因はそういうところからもきていたのだが、中学生としての勉強など無意味になってしまって、天体のことばかり考えて いた。むろん肉眼では見えない太陽系の向こうの天体のことである。  そんなふうにボンヤリしていて、ふと気がつくと、障子の紙に雨戸の節穴から外の景色が映っていた。茂った木の枝が青々として、 その葉の一枚一枚までが、非常に小さくクッキリと映っていた。屋根の瓦も肉眼で見るのとは違った鮮やかな色だったし、その屋根 と木の葉の下に(そこに映っている景色はさかさまなのだから)広がっている空の色の美しさはすばらしかった。パノラマ館の背景 のような絵具の青さの中を、可愛らしい白い雲が、虫の這うように動いていた。  私は永い間、その微少な倒影を楽しんだあとで、立って行って障子を開いた。景色は障子の紙の動くにつれて移動し、半分になり、 三分の一になり、そして消え失せてしまった。景色を映していた節穴は、今度は乳色をした一本の棒となって、暗い部屋を斜めに切 り、畳の上に白熱の一点を投げた。  私はその光の棒をじっと眺めていた。乳白色に見えるのは、そこに無数のほこりが浮動しているためであることがわかった。ほこ りって綺麗なものだった。よく見るとそれぞれに虹のような光輝を持っていた。一本の産毛のようなほこりはルビーの赤さで輝き、 あるほこりは晴れた空の深い青さを持ち、あるほこりは孔雀の羽根の紫色であった。  そのころ私の父は特許弁理士をやっていて、細かい機械などを見るために、事務室には大きなレンズが転がっていた。直径三寸ほ どもある厚ぼったいレンズが、ちょうどその時、私の二階の部屋に持って来てあったので、私は何気なくそれを取って、節穴から光 の棒に当てて見た。そして、焦点を作って紙を焼いたりして、子供らしいいたずらをしていたが、ふと気がつくと、天井板に何か薄 ぼんやりした、べら棒に巨大なものが、モヤモヤと動いていた。 …………

写真撮影:塚越藤司2004

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