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子どもの頃、夜、直接光を見るのが好きだった。
まだ一人で歩いて行ったことのない遠くの建物から、かすかに届く電灯の光が怖いながらも惹きつけられた。
どうして光は光芒を放って見えるのか、あの放射状の線は何なのか、母にきいても、質問の意味がどうしても伝わらず、もどかしく思ったものだ。
冬、凍った道に反射する星星のような輝き。そしてその星星を踏みしめると、子どもの足でも一つ一つの結晶が小さく砕け散る音がした。破壊の罪悪感とも異なった、言葉にならない感情がいつも去来したが、やめられなかった。
逃げても逃げても後をついてくる月。
いまだに、異常に明るかった、ある満月の夜の光景が忘れられない。あれほど明るかった夜には以後お目にかかっていない。月の光で虹がかかることがあるというが、私はさもありなんと思う。一度でいいからそのような幸運に遭遇してみたいものだ。
「月が青い」と大人が言う感覚を、子どもの頃は理解できなかった。
しかし「青」という「概念」を私なりに積み重ねてきた今、確かに月は青いと思う。もちろんそれはただものの青ではない。
人を狂わす青とか、静謐の青とか、玲瓏とした青、冴えわたる青とか、さまざまに表現されてはいるが、それでも私はまだ月の青さに対してはほとんど語られていないと思う。
私は1993年に故長野耕平氏の紹介で二宮知子の作品を知った。私は一見して彼女は月の画家だと直観した。
ここ数年の二宮知子は顔料に限定されず、また平面的なフレームにもとらわれず、さらには支持体までもが消失し、光そのものの質感を実体化しようとしているようだ。そのためには地球上のいかなる元素・物質も彼女にとっては素材になりうるのである。
顔料とフレームといういわゆる「絵画の大前提」を捨てることは、たやすいようでたやすくない。それは定型詩と自由詩の関係に対応するだろう。
定型から離れることは大海に船出するに等しく、空中分解する危険を伴う。自由詩で語られる苦悩ならば、既に近代以降必要以上に語られている。
作家の衝動が切実なものであれば、定形を離れてもふさわしい素材は必ず作家の前に現れ、決して作家を拒まないだろう。
この宇宙空間に編み込まれた元素・物質のアーティキュレーションは、それほどまでに豊かで、包容力あるものだと私は確信している。
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□above
"Lumi di Luna" material:wax,LED
height:70mm
photo by T.Ninomiya
□below
"on DEN's table"
material:wax,LED 160×120×95mm
photo by Akihiko IIMURA
©1998 Tomoko Ninomiya